さよなら

 

先々週、終了する間際に彼氏とムンク展へ行った。

一番有名な「叫び」はもちろんよかったけれど、それ以上に「接吻」の絵が印象に残った。

薄暗い部屋で女性が男性の首に手を回し、抱き合う形でキスしている。

男女の目や口は描かれておらず、二人の顔の輪郭が溶け合う形で混ざり合っている。

 

解説では、「ムンクは、女性が恋愛において自身の欲望を満たす為に男性を支配する存在であることを表現している」と書かれていた。

なるほどね。と思った。その通りだよムンク

 

 

過去のことを話します。

 

私はからっぽであるという感覚が高校生くらいの頃からずっと抜けなかった。

そのことに対して虚無を感じることもあれば、何にも染まらずに同化できて楽だなと思うこともあった。

 

ただ、大学に入学してから地元の限られたコミュニティとは違う様々な人と出会い、しばらくして、たくさんのコンプレックスが襲ってきた。

それを解決する手段として、自ら能動的に動いて自分自身に知識やスキルを身につけ、自信に変えていくことが一番まともで正しいやり方だと頭では理解していた。

でも私はそのコンプレックスを解決する方法として、自分に持ってないものを持っている男を惚れされることで支配し、解消しようとしてしまった。からっぽの感覚が根底にあり、その不完全な部分を早急に埋められるような別ルートの人生を欲していた。

 

そうして、はちゃめちゃな交友関係が始まった。

学歴に関しては東大、早慶の男を狙い、しばらくして頭良いイコール人間として尊敬できるとは違うなと気がついた途端、社会的な身分が高いと言われている弁護士や経営者といった人間にシフトチェンジした。それも、自分では手に入らないような人生の物語を疑似体験するためだった。

何人か面白い人もいて、自分の努力でそこまで登って行った人は凄いしもちろんその人の才もあったけれど、今その立場にいるのは実家のお金持ち度が大きなウェイトを占めることも薄々と理解し、こんなの結局運ゲー格差社会じゃん。と思ってどうしようもない気持ちになった。総じてプライドが高い彼らに、自己責任で一蹴される弱い人の気持ちってわかるのかなあと、若い無知な少女のフリをしながら思っていた。

 

次第に、思い返せばかなり最悪なことだけど、向こうから二回会いたいと言わせたらそのタイプに対して攻略済みのチェックマークがつくようになっていた。初めから遊ばれていたとしても、一度体を許したら立場が逆転する可能性があることがわかっていたので、それは断じて拒否し続けた。

自分の容姿に関するコンプレックスは、顔立ちと立ち振舞いで女の子が自然と寄ってくる、いわゆるモテるタイプの人間で解消した。多分私は人と感覚が少しずれていて正統派のイケメンには惹かれなかったこと、そしてそこから来る適当な反応によって成り立っていたと思う。その中の一人とは結構長く続き、確かに綺麗な骨格と顔立ちをしているなぁとまじまじ見ることも多かった。けれどどこまで掘っても会話が浅く、そのうち彼が得体の知れない何者かに思えてぞっとしてしまった。

 

だんだんと私は疲れていった。美味しいご飯を食べても感覚がなく、周りから賞賛される肩書きや地位を持っている人に対しても自分が色眼鏡をかけていた部分が大きかったと分かり、作業的にこなし若さを消費し続けるこの行為に意味はあるのかと問い始めた。

そして、からっぽな自分にさらに磨きがかかった代わりに様々な仮面が生まれ、ナメられないようにと無駄な鎧をまとっていった。

その仮面を相手のタイプに合わせて使い分けていくうちに、どの自分が正しくて本当なのかさっぱり判断できなくなっていた。

 

 

 

もうこんな事やめようと思いを決めつつも、ぐずぐずと引き伸ばしていた頃にたまたま美大生の彼と知り合った。

昔からデザインや抽象的なものに惹かれる事もあって、いいな、アートは。いろいろと直接的に訴えかけてくるものとは自由だもんな、と思った。彼も整った顔立ちをしていたけれど、しかし精神的に疲労していた私は普通に彼とは友達として仲良くなるつもりだった。

 

だけど、前も言った通り彼のポートフォリオを見せてもらった瞬間、うそでしょ、と思った。私と同い年で目の前でニコニコしている華奢な彼が、一瞬で人を引き込むようなこれらの写真や作品を作ったなんて信じられなかった。

実際に彼は大学のパンフレットにも作品が掲載されるような優等生だった。

そこからは多分、私の方が彼に取り憑かれていった。

 

不思議と初めから会話がなくても心地よく、波長が合うってこういうことかと肌で感じた。私のいつもの仮面は登場せず、肩の凝る鎧が外され身軽でいた。

 

彼は日常の中の光を見つけることが得意で、世界を眼差す瞳は冬の日の空気のようにつめたく澄んで透明だった。

 

二人で出かけた場所はどこも現実離れしていた。平日お昼の美術館、ビルに潜入して見た夕日と運河、月が見える銀座の隠れ家、高くそびえる巨大な貨物、黙って歩いた夜の多摩川。なぜかいつも満月で、まるく大きく光る月が、その明るさとは対照的に黙って私たちを見ていた。私はなんども月と目が合って、全て見透かされている気がした。

私と彼は波長が似ているからこそ、ずっと一緒にいると違う人生を歩む彼が羨ましくなることは分かっていた。そしてその才能や純度の高い瞳に対してきっと私は耐えられない。

 

だから彼に思いを告げられても、断って正解だったとやはり思う。私の滅茶苦茶な言動から絶対に他者には理解してもらえないだろうけど、結局私は長く続いている彼氏のことが大好きだった。

 

 

 

 

この前、美大に卒業制作を見に行った。

彼は映像と、写真を組み込んだ冊子を作成していた。空間自体から作り込まれていて、彼の目を通して見る世界をそのまま感じることができた。

 

 

決して特別ではない、些細な日常の映像

撮っている対象はなんてことはない都市の風景や森や花や行き交う人々なのに、そのどれもが心の奥底にある記憶と触れて線を結ぶような、体験したことはないのに懐かしさに目を細めてしまうような 

静かで、言葉や意味の前にある本質に近いものが表されていた

そしてそれは等しく私の心も揺り動かした。

 

 

映像を見ながらひっそり泣いた。彼の見ている世界はなんて繊細で美しいんだろうかと思った。

その様子に気づいた彼は、私に一言「ありがとうね。」とだけ声をかけてくれた。

 

 

 

後から、PDFで冊子のデータを送ってもらった。

膨大なページの中に数枚、一緒に行った場所と、私のカメラを構える手、そして光に照らされた私のシルエットの写真が入っていた。

 

 

私はきっと、彼のように多くの者に影響を与える人にはなれないだろう。

ただ、これまで関わってきたけれど混じり合わなかった何人かの人生、そして彼。

その中に私という存在が刻み込まれ、記憶のどこかに引っかかって息をし続け、その人の人生を構成していくのならば、それは私なりの生きていた証なんだと思う。

 

彼の透明な眼差しの中で、作品を形作る1ページとして残ることができて、本当に幸せだった。