光のかげ


私に映画を勧めてくれた彼は美大生で、才能があり有名な事務所に就職が決まった。彼のポートフォリオを初めて見た時、「これ本当に君が全部作ったの?」と聞いてしまうぐらい素晴らしいものだった。どこか浮世離れしていて、私はかなりコンプレックスというか羨ましさがあることを自覚している。作品を見てこれどう思うの?とか聞いたり、イタリアで実物の美術を見ること親が建築と服飾の人、凄くいい写真を撮ることとか就職先の青山のオフィスとかそれを特に自慢げに誇示するでもないところとか。羨ましい。私はこれから社会の歯車としておじさん達の中で地味で真面目な仕事をするというのに。
ノルウェイの森というワードが出てきた途端にハッと立ち止まってしまった。並んで歩いている時に毎回前でこちらを見ていた月とか、作品を通して見る光が好きなんだと思うという私の言葉とか偶然立ち寄ったフローライトのお店とか知ってるギャラリーとかblueという題名の海の本が2回全く別のお店で出てきたこととか安藤忠雄とか不意に現れたカテドラル教会とか表参道の人通りがなくて不思議な建物が並んでいる道にもう一度行けたこととかお酒を飲まずに雰囲気のいいカフェに行ったこととか、たまたま美大生と仲良くなって被写体として撮ってもらえることとか秋晴れとか代々木公園とか渋谷ヒカリエの8階から眺める静かな渋谷とか青学と桑沢デザインの学校に侵入したこととかミッドタウンの21_21の前の芝生で風を見たこととか偽物の東京タワーを眺めたこととか、六本木のTSUTAYAで写真集を私が一目惚れして買ってしまったこととか無意識ににこにこしながら隣を歩く彼の横顔を見て思わず手を繋いでしまったこととか、新宿のSuicaのぺんぎんの広場で通り過ぎていく夜の明かりの電車を眺めていたこととか、面接会場だったJRの本社、くらげのように発光したエレベーターが見える東急ハンズ、ガラスに反射して現れた光の階段を見つける彼、そしてその彼を振ってしまったこと、それら全てが運命的だと思った。涙を滲ませた彼の目を見ながら、私はこの人を傷つけるべきではなかった、目が死んでる人が好きなんて言うんじゃなかった、私は彼の目を通して見るきらきらした柔らかな光や懐かしい景色、透き通った鋭い視線が、映し出された世界が、作品が好きだった。私の手で汚してしまったことを、すごく後悔している。そうか、普通は告白してから手を繋ぐのかあとぼんやり思いながら、手順を踏むという行為をすっかり忘れていたこと、そこに手があって繋ぎたかったからという馬鹿げた理由で何も考えず行動してしまったことを反省した。この映画、音楽、好みに合うといいなぁと言ってくれた優しい言葉、小田急線まで帰る時寒いのに手を繋がない2人、帰ってきてからの明らかに以前とは違う温度の傷ついたライン、それら全てに胸が痛んだ。自分で招いた結果のくせに。わたしは、全てを捨てて選べるようなところからは遠ざかってしまった。な
不思議と初めて会った時から自然体でいられて会話がなくても平気だった。彼の撮った写真に映る私はどれも楽しそうで、これは恋してる女の子の顔じゃん、やれやれ、と思った。

通り行く電車の方を見ながら「私がなりたくてなれなかったものを持ってる」って言ったけど、それは本当は間違っていた。そもそもなろうとすらしていなかった。誰も制限をかけているわけではないのに、目を背けて行動していなかっただけ。それを言える土壌にすら立っていない自分は体ごと遠くに放り出されたような気分になった。