記憶はいつでも

久しぶりに、昔アルバイトをしてたイタリアンへ食べに行った。

 

店長は私と同い年で、私が大学2年生の時に専門を出て社員として入って来た人だ。

私は初め彼が苦手だった。なんというか、サッカーばかりしていて人種が違うし茶化すような幼稚さが合わないとか思っていた。

それはまぁ大きな間違いで、私よりもよっぽどしっかりしていて誠実で意思がある凄い奴だった。人種が違うが故に違う物の見方(そしてすごく素直)をしていて新鮮で、私はそれを尊敬していた。

人のことをよく見て的確な指示を出し、自分の好きなこと夢を叶えるために逆算した人生設計をしている。親には一切頼らず私と同い年で親にお給料でプレゼントをしていて、社会人って一気にしっかりするなぁ、私がぼーっとしているだけかなあと会うたび思う。

ただその事を伝えると「いや、専門はずっと授業とバイトだったからサークルとかゼミとか合宿が羨ましい。俺も学生やりたかったわ」

と言っていた。自立して人から素直に学んだり感謝できる君の方が学生してるよりも何万倍も素晴らしいよと思うけど、その羨ましがる気持ちも分からなくもない。

 

彼とはバイト終わり深夜までやってる居酒屋で、朝まで将来のこととか恋愛のことで真剣に討論したり、休みが被った日は吉祥寺のハモニカで大笑いしたりした。バイトと社員の同い年4人で夜中「寒い寒い」っていいながらセブンのおでんを回し食べしたのもいい思い出。

でも私が一番鮮明に覚えているのは夏の深夜2時の河川敷、自転車を止めて話している時

「俺、これからどうしたらいいんだろう」って呟いた19の彼の姿だ。

明かりの消えた住宅街の中、川だけが静かにさあーっと音を立てて流れていて、私は彼の横顔を見たまま何も返せなかった。その後彼はどうしたんだろうか。自分でどうにかできたのだろうか。

その時だけ夜なのに蝉が鳴いていた。

 

 

お店で出してくれたパスタを食べながら、私もうここに来ることないんだろうなぁ。とぼんやり思う。なんとなく、私も彼もほんの少しずつ環境が変わってほんの少しずつ感覚がズレている。

 

過ぎてしまった一瞬一瞬のことを思い出すと、あまりの遠さ、それゆえの眩しさ、そして戻ってこない寂しさに襲われる。私は感傷に浸りがちだと思う。

 

 

はーあ、これからどうしていくんだろう私たちは。人生は猛スピードでかけていくね。

彼は地元に帰って彼女に手伝ってもらいながらお店を開いてみんなが笑顔になれるような場所を作れたらいいな。そうして私はたまに旅行とかに行った時に子供を連れて食べに行って、昔このおじさんが作った料理をお客さんに運んでたんだよーとか言ってたら面白いな。

明るいな。泣けちゃうな。

 

帰り際にもらった袋詰めされたパクチーを見て

「この見た目さながら脱法ハーブだね」

とか言って笑った。

家に着いた時「また食べに来いよ?」ってラインが来てたけど、私はそれを軽く流した。

 

 

金木犀はアヘンのように

わずかに残った夕日に惹かれるように、そして急かされるように、気がつくと目的地とは逆の方向にペダルを漕いでいた。

でもいつまで経ってもその消えて行く淡さには追いつけなくて『ここまで』の標識でハッと我に返って漕ぐのを辞めた。

 

 

夕方の空は真実で混じり気のないもの

「綺麗」ということに何の後ろめたさもない。

このわずかな時間が終わると同時に抱いていた気持ちは急にさっぱり忘れてしまう。

夕飯は何にしようか。

 

 

生まれた

飲み込んでしまった言葉たち

 

名前の付いていない感情

 

 

絵画のような空

 

遠いのか近いのか

立体なのか平面なのか分からない雲

 

 

足先が痺れるような幸せ

何もかもが過ぎ去ってしまったようでいて

実はすぐ後ろに前に隣にいるのだ

 

自分のことを好きなまま大人になりたい

大人になりたいって言い続けているうちに大人になってしまうよ

 

藝祭だ

2日間行ってしまった。

 

浮世から2mmくらい離れてる人達が多くて羨ましかった。半分の学生は就活しない理由が何となくわかる、スーツ着て歩くのがとってもアホらしく思える。

あと上野という土地と絵画棟の大きい窓が素敵だった。光の入り方、風、額縁のような窓。

 

 

作品に関しては自分以外の人が見ている世界の切り取り方が見れて、おもしろかった。

 

自分が見ている現実は本当に一部でしかなくて、同じ時代や日本で生活していても人によって全く見えているものは違うんだという当たり前のことに気がつく。 

普段から自分の気持ちをスルーしていれば、分かりやすいものに流されていく。それが大多数の意見に、そして「正しさ」が作られていくんだろうな。とか。

 

 

それとは別に展示を見ている途中で、後ろで学生が何かのアートについて真剣に討論してるのを聞いた。

その時上手く言えないけど膨大な人生のあり方に途方に暮れてどうしようもない気持ちになった。

全ての人生を体感することは出来ない

自分の範囲内でしか世界を見れない

 

芸術を極めたり理系だったら自分の専門分野を極めたり、私には分からないような世界が大学にはたくさん広がっている。大学以外でも。

その全てのあり得たかもしれないジャンルの人生や知識に踏み込めない事がもどかしい。欲張りだけど。

 

かといってストイックに勉強しないのが私の悪いところである

だから本を読まなきゃいけないねという話だったりそうでなかったり 。

 

 

絵とかアートは余白があって安心するな 息ができる

 

8月でブログ辞めるつもりだったけど思考の整理ということで

 

実在した夏

全ての季節の中で夏だけが終わる

今年は平成最後の、とか学生最後の、とか色々あるけど私にとっては最後のモラトリアムの夏だったと思う。

 

私が7月の初めに書いた記事で、今年は落ち着いてまともになりたい、でも若さを使い果たしてしまい気もする みたいな事を書いていた。

 

今年は海もプールもひまわり畑もフェスも行って、遠くへの旅行や彼氏と浴衣を着て花火大会、帰省しておばあちゃん家でスイカを食べ、夏祭りも行った。会いたかった高校の友達や気になって話してみたかった女の子とも連絡を取って会うことができて、全てを制覇した、そんな満足感がある。

いろんな人と撮った笑顔の写真を見ながら、後ろめたさ無しに、今年の夏を少しのノスタルジーと一緒に終えられるなぁと思った。

 

 

そんな感じで、今年は落ち着いていた。いつかの夏のように、フィッシュマンズを聴きながら徘徊してひたすらに消えたくなったり徐々に大人になって単純になって行くことへ耐えきれず夜中にひたすら泣きじゃくったりするような不安定な気持ちになることは少なかった。

 

大学生の怠惰をなぞるように早稲田のクズ男の家に転がり込んだ2年生の夏。タバコ臭い部屋とヤニのついた壁、足の踏み場のない床、大量の本。氷結とかアホみたいな酒をたくさん飲んでお互い汗でベタついた身体をくっつけながらキスして、飽きたらラーメンを食べに行くか近くのゲーセンで脱衣麻雀をしてるのを見て、完全に頭の弱いアホ女な自分を楽しんでいた。

どっかの有名な企業のトップの人とは何回か六本木辺りでご飯食べて、リッツカールトンのバーとか知り合いが経営してる麻布十番にあるお店に連れて行ってもらっていた。その時はよく清楚だよね、お嬢様みたいと言われていて他の堕落した自分を見せたらどう思うのだろうかと考えていた。クズ男とは何回もするくせに一度に何万もする料理を食べさせてくれる人とは手さえ繋がせない自分。

 

同じコミュニティとは関係を持ちたくなかったので、頭のいい男の子をtinderでよく引っ掛けてひたすら夢中にさせる遊びをしていた。私は色々な人生を体感して、色々な自分にカメレオンのように変化することを楽しんで、でも相手のことが大体理解できるとすぐ飽きてしまった。

結果的によく向こうをはちゃめちゃにさせ、嘘でもいいから好きって言って、彼氏いるって知って俺マジで悲しい、もう会えないって言われてから本当にご飯が喉を通らない、僕のファムファタルになって、とか言われそのたびにまたやってしまった、という気持ちになった。

○○は可愛くて話合うし他の女の子とは違うよね と嬉しそうに言われた時、

あなた達に見せてるのは全部合わせて作り出した幻想だよ、と思って勝手に失望した。

 

 

性欲を埋めるためでも自己肯定を求めていた訳でもない。色々な自分を演じることで実体のない、記憶の中の女の子になりたかった。

いつも危うくふらふらしてて、ふと気がついたら居なくなってしまうような存在になりたかった。

 

いくら褒められても疑って真に受け取れなかったけど、「○○ってなんか不思議と懐かしい感じする。エモいよね。」と言われたとき素直に嬉しくて、なんかもういいかな。彼氏の側に戻って何も知らずににこにこしていたいな。と思った。

 

 

**

最近田舎の実家に帰った。
家の前でまだみんみんと蝉が鳴いていて、手入れされた草木と小さな可愛いお花が並んでいる。庭に置かれた椅子に座ると青々とした山と広すぎる空、藁葺き屋根の隣の家が奥に見える。トラクターが後ろで走る音を聞きながら、私はパジャマにした中学の時の体操服のままスイカに塩をつけてむしゃむしゃ食べる。これは誰に見せるでもない私の素だろう


海はもうすでに夏とは違った顔を見せていて、落ち着いた波が日の光を反射させてキラキラしていた。波の打ち寄せる音と180°に広がるパノラマの海、目の前を2羽通り過ぎていく白いかもめが、私の意識も遠くへ連れ去っていった。 ずっと遠くの海の上の空気に一体化した私は、これが最後のモラトリアムだろうと何となく感じた。

 

 

 

ノルウェイの森

節目の本

 

多分一番影響を受けている

18の時に初めて読んで、その時から繰り返し読んだ。

 

20歳になる少し前に彼氏といった岩盤浴で、BGMにビートルズのそれが流れていた

タイミングもあり、少し泣いてしまった。

 

 

 

今日、母とランチでビストロに食べにいった。

お肉とお魚のコースをそれぞれ頼んで少しずつ交換し、丁寧な味のする料理を美味しいねといいながらたわいもない話をする、しあわせな時間だった。

 

その時も、BGMにビートルズの曲がずっと流れていて、ちょうどコースのメインが来たあたりであの曲も流れた。

20歳になる前とは少し違った、遠くを懐かしむような感情で聞いていた自分に少し驚くと同時に、こういうことか。とも思った。

 

 

 

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成熟するんだよ

顔という呪縛

単発のアルバイトで、スタジアムのスタッフをした。

その日はSS席入口にはいるお客さんのチケットを確認するという単純な仕事で、同じSS席前に配置された女の子と2人で、まばらにやってくるお客さんのチケットをひたすら確認していた。

 

途中で若い男4人くらいに「えー可愛いね!」とすごく顔を近づけながら言われて、へへ、ありがとうございます とか少し身体を引き気味にして答えた。

他の違うアルバイトでも「お姉さんが可愛いからもういっこ買ってくね!」と言われ「ホントですかー嬉しいです〜!」みたいな相手が想像するような役を演じたりする。

確かに可愛いと言われて嬉しくないと言ったら嘘になる。ただ、こういうことがあるたびに心に少し黒いもやがかかったような気分になる。

 

今のような相互のコミュニケーションも必要ではない場面で、相手の一瞬の判断によって私は何もしていないのに快の感情を与えたことになる。忙しそうに前を通るビールの売り子さんを見ても自分の若さと可愛さを前面に押し出してカップを減らしていることが分かる。

ただ見た目がもし醜かったとしたら負の感情を与えることになるのだろうか。おじさんに邪険に扱われるかもしれない。売り上げにもつながらず、お店の印象も落ちるかもしれない。自分の力とは何も関係がない地点で。

 

そういった勝手な評価にもやもやする一方で、例えばもし私じゃなくて前のもう1人の女の子だけに可愛いと言っていたらそれはそれで自分はすごく傷つくんだろうなと思うので、私も評価にとらわれているのだ。

 

 

女に生まれた時点で人からの目線、特に男の人の目線に晒され逃げられないことに対して気が遠くなりそうだ。

今自分が頑張って綺麗にしているのは一体誰のためなんだろうか、とたまに思う。仲良くしてる男の子に見た目を褒めてこないという共通点があるのはこういう理由かもしれない。

しかしひねくれているので、彼らももしブサイクだったらサシで飲みに行こうなんて誘わないでしょ、とか心の奥でチラリと思う。

 

人間が海とか山とか星くらいフラットで中立だったらなあ いちいちこんな小さな事で悩まなくて済むのに